Since 2018.01.24.

日常雑記

欧米俳優の合掌挨拶について

 俳優のベネディクト・カンバーバッチが韓国語圏他、英語圏やら日本語圏で炎上している。この様子だと、他の言語圏でも炎上してるんじゃなかろうか。

ざっくり現状をまとめると、空港で挨拶をする際に胸の前で手を合わせてお辞儀をしたこと(便宜上、ここでは「合掌挨拶」と命名しておく)が一部の韓国ファンの顰蹙を買い、他の言語圏のファンにもその話題が伝わった結果「合掌挨拶は差別じゃないのか?」「べつに差別ではないのでは?」と意見が割れている、という状況である。(辞退はやや沈静化しつつある、と思う)

ベネさんのいちファンとしては、こんな話題でベネさんの名前が大きく扱われてしまうのは悲しい限りなのだが、個人的に思うことがあったので記録することにした。

(以下、ツイッターで呟いた内容と重複する部分有り)

 

1。今回の問題に対する、私の視点

例のベネさんの合掌挨拶について、私は「ステレオタイプな『アジア』像を前提に、誤った『韓国』像に基づいて、現実の、実在する韓国人に接する危うい行為」だと思った。もし私が韓国人だったら、「そういう誤った『韓国』像に基づいて私たちに接しないでほしい」と思うだろうし、「そういう誤った『韓国』のイメージを他国に広めるような言動はやめてほしい」と思うんじゃないかな、と想像している。

ただ、「合掌挨拶は差別的行為ですか?」と聞かれたら、2:8か3:7くらいの割合で「いいえ」と答えると思う。例の合掌挨拶を、韓国(やその他のアジアの国々)を馬鹿にする・嘲笑する行為だとは思わないからだ。ただ、「差別する(見下す)行為ではない」というだけで、「勘違いアジア」な挨拶だよなー、とは思う。

どうして「100%差別ではない」と断言できないのかというと、「本人に差別の意図がないから差別ではない」という言い訳は通用しないからだ。今でこそオペラ『マダム・バタフライ』や『ミカド』は人種差別の象徴として扱われているが、それはプッチーニサリヴァンに日本人を馬鹿にしてやろうという意思があったかなかったかとは無関係に、『マダム・バタフライ』や『ミカド』は、当時の欧米圏におけるアジア人種への偏見や差別を維持・助長するような役割や機能を社会的に有していた、と、現代の視点から評価せざるを得ないためだ。ベネさん個人に差別の意図はないとしても、韓国やその他のアジアの国々についての間違ったイメージを広める役割を持ってしまっている、という意味で、ベネさんが合掌挨拶をするのは「アジア人への偏見を維持・助長する」という点でちょっと危うい行為だし、「アジア人差別に加担している」と批判されたら、しっかり理論武装しておかないと、この批判をかわすのは難しいと思う。また、個人の言動に付きまとう、「私の気持ち」(小さな文脈)と、周囲との対話・交流を通じて生じる「社会的な評価」(大きな文脈)は、必ずしも同じ結果になるわけではない、異なることもある、という点を押さえておかないと、今回の問題について分析するのは難しいと思う。

 

2。あなたの国を「勘違い」するわたし

私の観測範囲内ですら、今回の問題についてはいろいろと意見が割れているので、一概に「日本のファンはこう考えている」とまとめるのは難しい。なので、この記事は私の備忘録も兼ねつつ、今回の合掌挨拶が批判されている理由について、いまひとつピンとこない、という人を想定して書きたいと思う。

まず、ピンとこない理由について、私なりの想像や考えを述べたい。

おそらく日本のように、(「勘違い」も含めて)「ニッポン」「ジャパン」としてはっきり認識されている国・文化圏の人間には縁遠い感覚なのだと思うが、「自分の国・文化が独立した存在として他国の人間に認知されていない」「自分の国・文化が、よその国・文化と混同されている」という現象は、一瞬でも世界地図上から自分の国の名前を抹消された、植民地にされた経験がある国・文化圏の人間にとって、かなりショッキングな出来事なのではないか? と思う。

以前、クリス・プラットが来日した際に謎のポーズをしていて、日本の洋画沼の住人が???となっていたところ、後日、韓国で同じポーズをしており、どうも最近流行りのハートマーク(finger heart)らしいぞ、と判明したことがあった。そのとき、「う~ん、韓国と日本は違う国なんだけどな…」とモヤモヤした人には、そのモヤモヤした気持ちと、韓国のファンがベネさんの合掌挨拶を見て感じたであろう衝撃とは、実は根っこが同じなんだよ、と伝えたい。

合掌挨拶が「勘違い」であるにもかかわらず日本社会で許容されているのは、いただきますの所作や神社仏閣でのお参りの動作、仏壇やお墓の前や、警察ドラマでよく見る臨場・司法解剖のシーンなど、日常生活の様々な瞬間に合掌する慣習が残っているからではないか、とも思う。だから、海外の俳優が場違いなシーンで合掌をしたところで、日本では「かわいらしい間違い」として軽くスルーされるけれど、合掌の習慣がない・少ない韓国でやったら明らかに「この人、『勘違いアジア』のイメージで韓国人を認識してるな」と評価されるだろうし、「この人は韓国に来るのに韓国のことを何も知らないし、知ろうともしてないんだな」と思われても致し方ない。

昨今の(悪趣味な)「海外のエセ日本文化を成敗してやる~」的な日本のバラエティだったら「勘違いニッポン」「勘違いガイジン」の一例として嘲笑されたり顰蹙を買ったりする動作だろうな、と、私は思うし想像する。

ただし、今回のベネさんの件は、ベネさんだけでなく欧米圏の俳優全体にとっての問題だと思うし、内容的に批判されるのは時間の問題だったし、ああもうそんな時代かあ、という感じである。

 

3。で、要するに差別なの? 差別じゃないの?

ベネさんの合掌挨拶はdiscriminationではない(差別ではない)けど、racial stereotype(人種的偏見)だと見なされても仕方ない所作だよなあ、というのが、私の結論だ。

discrimination(差別)という言葉の語感がとても強い感じるがするは、これが主にネガティヴな物事に使われるからで、「あの合掌挨拶ってtypical orientalism(典型的なオリエンタリズム)だよね」と形容した方が、表現としてより的確なのではないだろうか。

…というのが、ベネさんが合掌挨拶をした理由やその後の発言を好意的に受け止めた上での、いちベネファンとしての私の感想になる。

 

補足。どんなに気持ちがこもっていても、差別・偏見にしかならないのか

私もできれば差別・偏見という偏狭な枠に当てはめるだけの考え方はしたくないし、発言者・行為者の意図をもう少し汲み取って、個人の意見(小さな文脈)と社会的評価(大きな文脈)とを縒り合わせ、縫い合わせるような分析をしたいと思っている。(理想を抱くは安し、実行は難し……)

今回、状況をより複雑にしているのは、ベネさんがある程度教育レベルの高い俳優であり、パパラッチに対して機転の利く返しをしたり(「海外で起きてる、もっと大事な出来事を取材しに行ってくれ」)、アフリカで強盗に拉致されたり、チベットの寺院で英語教師を務めるなど、「非常に知性が高い」「(イギリスから見て)海外の問題にも関心が高い」「アジア圏に通じている」というイメージを持たれている点だと思う。

「I have black friends.(黒人の友達いるもん)」という言い訳が「I'm not racist.(私はレイシストじゃない)」の証明にならないのは十中八九事実なんだが、たまに異国の所作を、個人的に独自の解釈を加えて実行している場合があるのも事実で、自分の言動がフュージョン的パフォーマンスだと分かった上で行動している範囲では、その人に関しては(「小さな文脈」の中では)問題ないと思うんだけど、それが周囲の人々にどう評価されるのか(「大きな文脈」の中でどう機能するのか)を考えると、悩ましい問題だよなあ、と思う。個人の気持ちを汲みたいものの、汲み上げるだけでは済まないし問題解決にならない別の側面が存在してしまっているので。

 

追記。

「ショッキングな出来事なのでは?」と、まるでショッキングな気持ちを感じることが当たり前のような書き方になってしまったが、出身地・出身国によっては「知らない? だよねーw うちの国小さいしずっと植民地だったし」とかなり明るい笑いで返す人もいるので、一律に「ショッキングな出来事なんじゃないか?」と書くのは無責任だったかも、と思った。だからといって、今回の韓国での合掌挨拶で怒っている人の反応を「過剰反応」の一言で片づけることはできないし、片付けるべきでもないと思う。

また、洋画・洋ドラの消費を輪を支える視聴者として、私たち日本人もドラマ内・ドラマ外で提示される「アジア人」「日本人」のイメージに気を付けておいた方が良いのでは、と思った。そうすることで、私たち日本人が「日本人」として、海外でどのように認識されているのかを考えると同時に、私たち日本人が外国人を「外国人(ガイジン)」としてどう認識し、扱っているのかを考える足がかりにできるのではないだろうか。

批評することの難しさ。

どうも批評家というやつは食っていけない職業らしい。

「らしい」というのは、批評家という職で食っていける時代が昔はあったんだなぁ・という感慨半分、批評家という職は作家や翻訳家、研究家(研究者)という職業との二足の草鞋というか、単独の職業ではなく「兼業」の形でする仕事だと思っていたという驚きが半分混じっている。

どうしてこんなことを考えたのかというと、最近ツイッターで「女性だけの街」という話が炎上している(らしい)というのを見かけたからだ。

「女性だけの街」についての議論の推移やアンチに関する話は、概ねこの記事で議論しつくされているように思う。一言付け加えるならば、ツイッターでも他の人が指摘されていたように「センター試験(入社式)の日は痴漢におすすめ。なぜなら被害者が急いでいて泣き寝入りするしかないから(加害者が逮捕される可能性が低いから)」という犯罪の推奨・現実の加害行動を扇動するような男性ユーザーの発言が「笑いのネタ」として消費されるのに対して、「女性だけの街があったらいいのになあ(ストーカーされたり夜道に跡を付け回されたり(過去の経験&未来の心配)するの、もう嫌だなぁ、疲れたなぁ、そんな気苦労をしなくても良い街で性犯罪と関わりなく安全に暮らしたいなぁ)」という愚痴の吐露が過剰にバッシングされるのはあまりにもバランスが悪い、ということくらいか。

「女性だけの街」に似たような施設は、昔から日本にある。それは通称「駆け込み寺」と呼ばれ、現代では「公益社団法人 日本駆け込み寺」「婦人保護施設」「DV被害者のためのシェルター」あたりが有名だ。現代の「日本駆け込み寺」の場合、相談者は男性・女性ともに受け付けており、家庭内暴力やDV、ストーカー被害以外にも、金銭トラブルや引きこもり、刑務所出所者の社会復帰支援を行っている。「婦人保護施設」と「DV被害者のためのシェルター」は女性の被害者に重点をおいているようだが、これは被害者が女性の場合、物理的・金銭的に加害者の支配から逃れづらいという性質を考慮してのことだろう。

「女性だけの街」に対するアンチ意見を読んでいると、どうも脊髄反射的というか、ヒステリーというのは女だけでなく男も起こすものなのだなぁというのがよく分かる好例になっていて非常に興味深いのだが、反面、どうしてこうも冷静さを欠いた感想の投げつけ(あるいは投げつけ合い)しかできないのかと悲観させられる。というのも、なぜ「女性だけの街」を男子禁制にせねばならんのかというと、「性犯罪の男(加害者)」と「加害者でも被害者でもない男」とが区別できないうえに、区別するための手立てもないというのが理由だ。その点において、先のブログにおけるフグの比喩はとても的確な表現だと思う。

「性犯罪」というのは、一昔前だと「被害者VS加害者」の構造でしか捉えられてこなかったが、2015年前後から(とくに英語圏では)、

「被害者&被害者を支援する目撃者 VS 性犯罪の加害者」

という新しい枠組みをもって再考されている。

たとえば、2017年に表ざたになったワインシュタインの事件について、俳優のコリン・ファースは2017年10月に「25年前のことだが、ワインシュタインの被害者から相談を受けたのに、何も行動を起こさず、事件を黙認していたことを恥ずかしく思う」といった旨の発言をしている。また、事件を公にした被害者についても「彼女の行動をを支持します。大変な勇気がなければできないことです」と肯定的な姿勢を見せている。近年、コリン・ファースの演劇界でも立ち位置は、中堅から大御所へとシフトしつつあるように感じるのだけれど、こうした(一見部外者に見える)大御所が、「性犯罪は加害者だけの問題ではなく、その状況を黙認していた周囲の人間や目撃者たちの問題でもある」「そして、私は性犯罪を黙認する人間であった(今は黙認しない)」とはっきり態度で示したことは、その後の若手俳優たちの行動にも良い影響を与えたのではないかと思う。少なくとも、目上の人間が指針を示したことで、職場の風通しが良くなったのではないだろうか。

ところで、「女性だけの街」は、文字通り女性だけの街である。では、これを「女性だけの街」から「性犯罪者のいない街」に変化させたとすると、どうなるだろうか。

まず、女性の暮らしだが、言わずもがな、電車で痴漢をされたり、仕事帰りに夜道を歩いていても跡を付け回されたり、夜道に突然背後から抱きつかれるとか、飲み会でドリンクに睡眠導入剤を盛られて強姦される、といった心配がなくなる。

対する男性の暮らしはというと、意外と変化が少ないかもしれない。目立った変化といえば、痴漢に間違えられる可能性がなくなるとか、夜道を歩いていたら前を歩く女性に警戒される回数がゼロになるとか、メインメンバーが男子の飲み会に女子も誘うやすくなるとかその程度だ。なぜなら、「痴漢してやる」「強姦してやる」という歪んだ欲望を持たない大多数の男性は、そもそも痴漢も強姦もしないから性犯罪の加害者になることすら稀なのだ。*1

上記では便宜上「女性の暮らし」「男性の暮らし」と切り分ける形で「性犯罪者の街」を整理してしまったが、この他にも「子供(未成年)の暮らし」「老人の暮らし」「LGBTQの暮らし」など様々な切り分け方があろう。「子供の暮らし」なら、保育園・幼稚園で保育士に性的虐待をされる心配がなくなるとか、実の親だの親族だのに性的虐待される心配がなくなるとか、性的虐待を目的とした誘拐事件に遭遇する心配がなくなる、といった点がメリットだろう。ちなみにこの「子供の暮らし」に子供の性別は関係なく、男児も女児も含まれる。性別がある程度固定されるものとしては、男子→女子のスカートめくりや「あいつ生理になったらしいぞ」という環境型の嫌がらせ、また男子→男子のいじめで起きる、無理やりズボンとパンツを引きずりおろして写真を撮るといった犯罪行動ももなくなるだろう。痴漢・強姦はいわずもがな。子供(未成年)をターゲットにした性犯罪だからといって、大人だけが加害者になるわけではない。

「老人の暮らし」だって、性犯罪とは無縁だと言い難い。犯人の性的指向か、はたまた妊娠のリスクが少ないという打算なのか、一人暮らしの老婦人を襲って強姦する「老人が被害者」の事件から、自分の子供夫婦や孫世代に性的虐待を加える「老人が加害者」の事件まで、内実はさまざまだ。

「LGBTQの暮らし」は、私の想像力の乏しさゆえにはっきりとしたビジョンを提示することはできないが、ヘテロ指向の男女とは少し違った形で良くなると思う。まずは、LGBTQコミュニティ内における痴漢・強姦の問題の改善。また、ヘテロ指向の男性・女性による痴漢・強姦問題の改善や、(性犯罪というのはやや言い過ぎかもしれないが)、ゲイ・レズビアン性的指向をカムアウトしたときに「うわっ、オレ狙われてんの!?」と尻を隠す下品なジョークや「女と・男とセックスすれば価値観変わるよ」といった頓珍漢な発言が減ったりするのではないかと思う。

もっとも、痴漢・強姦の類の性犯罪は「加害者が被害者の身体を利用して自尊心・自己顕示欲を満たしたい」というケースが基本なので、ヘテロ→LGBTQに対する差別の話とはちょっと違う気もする。ワインシュタインの被害者たちの中には、屈強な黒人の男性俳優もいたが、彼は「自分のされた事にまともに抗議したら、この業界ではやっていかれない。自分には妻も子供もいる、泣き寝入りするしかなかった」と語っている。性犯罪者は、自分よりも社会的に地位の低い人間や、身体的・経済的に弱い人間を選別して行動を起こす卑怯者だ。だからこそ、性犯罪のターゲットになったことのない「加害者でも被害者でもない男」にとって、「女性だけの街があったらなぁ」という声の切実さはいまひとつピンとこないのではないだろうか。

「女性だけの街」というのは、ある意味で「駆け込み寺」のように駆け込める場所の規模が「寺」から「街」に変わっただけの話だ。仕事帰りに夜道を歩いているだけで性犯罪者に襲われる不安がなく、夜中にちょっとコンビニ行きたいなと思ったときにコンビニに行くことができ、背後の足音を意識しながら、すぐ近くにコンビニあったかなぁ、交番は遠いしなぁ、一番近い病院で救急外来やってるとこ(レイプ検査のキットがある病院)ってどこだっけなぁ、と心配することもない街なのだから、女性というだけで被害者になりやすい女性(人口の50%)にとってはかなり住み良い街になると思う。

そして、批評は難しい、という話である。

私が、批評は難しい、と感じるのは、きちんとした批評には時間と、忍耐と、丁寧さが必要だからだ。

目の前に、「女性だけの街」や「アンチ・女性の街」という「批評欲」をそそられる対象があるとする。どう考えても「アンチ・女性の街」論者の方が言ってることがトンチキで、元の発言を大きく捻じ曲げ、歪曲し、妄想上の「女性だけの街を作ろうとしている危険思想を持ったバカ女」を相手に独り相撲を取っているのだが、どうもそのへんの区別ができていないらしいということが忘れられた状態で、議論(という名のエキセントリックな妄言」だけが繰り返しリツイートされるという、非常にナンセンスな状況に陥っている。

自分たちのナンセンスさに気づかないほど頭に血の上った人間に、いくら「その発言、ナンセンスですよー」と言ったところで、頭に血が上っていたのでは話にならない。話し合うには、相手がいったん頭を冷やして冷静になってからでないと、まともな議論は進まない。こちらもこちらで頭に血が上っていることがあろうし、まずはお互い少し距離をとって、クールダウンしてから意見を交換するというのが「批評」という技術にはに要求される。

そのうえで、周囲の傍観者をメインの読者に据えて「この発言は~~~という点や~~~~という側面においてナンセンスだと思います」と説明する。互いの論点を他者にも分かるように整理しつつ、自分の主張を打ち出していくのが重要だが、なぜ議論の相手をメインにしないかというと、お互いの細かな意見や論点を理解した気になって誤った方向に議論を進めてしまうことを防ぎたいからだ。また、悪意を持って相手の論点の整理(≒曲解)するような人間が相手だった場合、周囲の人間にも分かりやすい書き方をすることで「いままで五分五分の勝負だと思っていたが、あれはアイツの方がナンセンスだな」と部外者にも一目瞭然である。そうなってくれば、おいそれと相手の発言を捻じ曲げて自分の文章に引用していられない。

「批評」というのは、チェスやテニスのようなスポーツマンシップ、フェアプレイの精神が複数以上の人間に共有されていなければ不可能な、長期的パフォーマンスだ。議論の相手と意見を交わしながら、なんらかの結論を導き出そうという協力関係がなければできない。だから、良い批評は、滑らかなワルツのように美しい。その批評に費やされた時間と、忍耐力と、丁寧さとに、私は感動するのだけれど、そうした美しい批評を目指そうとすると、「反応」が中心のツイッターというSNSメディアは批評には向いていないのだなぁと思わざるを得ない。ぱぱっと瞬間的に、自分の感情を言語化できるが、その言葉の用途の正確さや曖昧さは考慮されない、というのが主な理由だ。また、意見交換のタイムラグが非常に小さいため、すぐに議論の流れが移り変わってしまうということもある。140文字という字数制限もある。自分の考えをきちんと言葉で表現しようとすると、どうしても140文字には収まりきらない。字数が増える。しかし、字数の多い文章というのは、好むと好まざるとにかかわらず、時間のない人には向かない読み物になってしまう。なぜなら文字を読むには時間がかかるからだ。書き手の、読み手の、好むと好まざるとにかかわらず。

「批評」が現代でやっていかれないのは、私は教育や知能の問題ではなく、労働や社会の問題だと思っているのだが、時間短縮や瞬発力、即応性がもてはやされ、「一度立ち止まって、自分や他社の発言を振り返る」とこが軽視される現代では、生き延びるのが難しそうだ。

*1:ただし、この論理はちょっと単純すぎる部分がある。というのも、AVの見すぎで「無理やり」もセックスのバリエーションの一つと考えるアホとか、相手を気遣ってるつもりでその実超ヘタクソな自己満足野郎とかもおり、この手のケースは「本人の妄想上では合意でセックスしてるつもりになってるけど客観的には強姦(ただし本人は自覚ナシ)」な応用問題的特殊ケースのため、考慮すると話がややこしくなるから割愛する。また、女性側が痴漢冤罪を作るパターンもなきにしもあらずなため(オーソドックスな痴漢犯罪よりも数は少なかろうが)、そういう応用問題的特殊ケースもここでは除外。